私のような中年太りの人間は、デパートで洋服を買う場合に「キングサイズ」コーナーに
行きます。どうして「キング」なんでしょうか? 昔の王様は太っていたからでしょうか?
それとも「キングコング」のイメージなんでしょうか? それはさておき、でっかいズボンや
でっかいTシャツ、でっかい靴、長〜いベルトなどは、見ていてなんだか笑えます。
何がおかしいのかわかりませんが、規格外の大きさというものは、多少の驚きと微笑みをもたらすようです。
規格外の小ささも同じです。子供用のいっちょまえのスーツやコート、ドレスなどもかわいくて、
微笑ましく見えます。車だってそうです。スバル360が元気に街を走っていたりすると、手を振りたく
なります。逆に鉱山の採掘現場などで働くモンスターダンプカーなどを見ると、驚きながらも、
喜んでしまいます。自分の常識サイズというものを快く破壊してくれる非常識サイズのものは、
面白いと思うんでしょうねえ。子供の頃読んだ「ガリバー旅行記」を思い出します。ガリバー自身は、
常識サイズで、彼が旅した国が非常識サイズだったわけです。つまり自分のモノサシ(常識)というものが、
別の場所だと非常識ということなんですね。だから私もアメリカに行けば、Mサイズの服を着れるのです。
そう言うと「ここは日本じゃ!」と突っ込まれます。日本人にしては大きい。しかしアメリカ人だと普通。
これでは、たいしたことはありません。どうせなら、相撲取りくらいのサイズにならないと笑ってはもらえません。
中年になりますと、若い頃には想像もつかなかった身体の変化が現れてきます。
先ず、きつい運動をすると、その翌日は平気なんですが、翌々日に筋肉痛がやってきます。
また、頭髪は白髪率がUPし、毛根も弱り抜け毛が多くなります。眉毛は異常に長いのが生えて
きます。耳毛も油断すると伸び放題です。鼻毛にも白いのが出てきます。差し歯も餅などを
食べると外れたりします。首の所に皺ができます。腹筋、背筋は弱り、代わりに脂肪が巻きます。
小便のキレが悪くなり、終わったと思ったら、終わってなかったり、残尿感があったりします。
足腰も弱り、速く走ろうとすると足がもつれて転びます。階段は下りの方が恐くなります。
視力も衰え、老眼がきて、小さな文字は離して見るようになります。近眼&老眼は二重苦です。
食も変化します。脂っこいものより、さっぱり系を好むようになります。それでもたまに、
お肉が無性に食べたくなったりもします。遠くのものは取りに行かず、我慢します。
昔のことをよく思い出すようになります。自分と同年代のスポーツ選手がいなくなり、
コーチや監督や親方になっているのを見て、そうかそうかと思います。飲みに行って女の子の
親が自分より年下と聞いて、へこみます。「ハクビシン」という名前をド忘れして、思い出すのに、
50音順に探していて、途中で何を思い出そうとしていたのかも忘れてしまいます。
こんな、「劣化報告」をしながら、焼酎を飲むのも結構楽しくて笑えるもんです。
事件や災害での注目は、「被害状況」です。これはきっと本能的に興味を持つんでしょう。
大きな被害は笑えませんが、小さな被害は笑えます。(大小の基準は個人差がありますが)
例えば、きれいな女性がワインを飲みながら「私ねえ、こどもの頃、すごい山奥に住んでいて、
猪に噛まれたことがあるの」といった話を聞くと、私はもうダメです。笑いが止まりません。
猪に追いかけられ、お尻を噛まれる本人にとっては、大きな被害だったでしょうが、それから
時間が経ち、傷も癒え、大人になってワインを飲みながら話す時はもう、被害が小さくなって
笑えるんだと思います。(「ワインを飲む女性」と「猪に噛まれた少女」の不一致もあります)
また、「カラスに糞を脳天直撃された」とか、「銭湯で溺れて、お湯をかなり飲んだ」とか、
「トコロテンが喉に詰まって鼻から出た」とか、「仔犬に股間を噛まれてお見合いをキャンセル
せざるを得なかった」とか、これらのケースは、本人の立場だったら笑い事じゃないんでしょう
が、その本人が淡々と話してくれるのを聞くと、おかしくて、おかしくて、仕方ありません。
その笑いの中には、「かわいそうに」という同情心もありますが、それよりも滑稽さの方が、
上回ってしまうのです。だから「お気の毒ですねえ」と言いながらも湧き上がる笑いを抑えら
れないのです。つまり、他人の「ちょっとした被害」は、同情スパイスで大いに笑えます。
赤ん坊をあやすために、母親がハイハイをして近づくと、赤ん坊は喜びます。
赤ん坊から見れば、「母親は、大人なのに、赤ん坊のようなハイハイをしておかしい」と、
思って笑うという心理学の説があります。その分析の真偽のほどはわかりませんが、
「○○なのに、□□」という不一致性は、確かに笑いのひとつの要因であるようです。
安田大サーカスのクロちゃんも「ゴツい顔して、少女のような声」という不一致を持っています。
芸としての、おかまちゃんも、性の不一致を持ち、それが笑わせる武器になっています。
逆に「一致」しているものは、当たり前だから「安心」できるけれど、面白くもなんともないのです。
「不一致」は人を「不安」に陥れます。その驚きが笑いになる場合と、ならない場合があります。
「少女の顔して、おっさんの声」だと、不気味さが先にきて、笑うに笑えません。つまり、
「A→B」が笑えたとしても、「B→A」が笑えるとは限らないということです。
その判断基準は、「ジョーシキ」とか、「一般概念」なんでしょうが、冒頭の赤ん坊のケースは、
よくわかりません。赤ん坊は、自分が笑っていれば、周囲の大人がよくしてくれると本能的に思っている
と、私は考えるんですが…。赤ん坊も少し年をとって、こどもになると、それなりの社会性を持って、
その中での「不一致」を見つけては笑っているようです。小学校の先生が「遠足に必要なものはなんですか?」
と、質問したら「はい、チンコです!」と言ってみんなを笑わす生徒がよくいます。これはワザと、
「不一致」を作り出しているんです。遠足に必要なものは、水筒やお弁当、みんなとはぐれないように
注意することなどは、知っているのに「チンコ!」と言います。その答えの「不一致」がおかしいと
知っているからです。ここでウケた喜びは、先生から叱られた悲しみに勝るのです。
幸せの絶頂から、不幸のどん底へ。その「落差」が大きければ大きいほど、
ショック&ダメージも大きいんですが、それを第三者から見ると、おかしい。
人の不幸を笑うのは、よくないことですが、ある程度のモラルの範囲内であれば、笑えるわけです。
貴重な壺を抽選で手に入れた瞬間、喜びのあまり手を滑らせて落として割るとか、
万馬券が来た〜!!と思って、馬券をよく見たら違う番号を買っていたとか、
そんな小市民的な、「幸せ→不幸」の落差は、自他共に笑える範囲内ではないかと思います。
しかし、人間の心の中には、他人の幸せは憎らしく、他人の不幸はザマーミロ。と思う
心の狭い悪魔が住んでいることも否めません。上記2例は、突如訪れた幸せが、突如逃げた
だけですので、マイナスではないのです。ただ、期待が空高く舞い上がって、落ちただけ。
それに、ショック&ダメージも、その時は、涙が出るほど悔しくても、時間が経てばリカバリーできるもので、
「この前、こんなことがあってねえ、悔しかったのよ」と言いながら、自分でも笑ったりします。
この精神の起伏が激しい人が、面白い人と言われているような気がします。しかし、誰でも、
「平常→幸せ→不幸→平常→幸せ→幸せ→幸せ→不安→不幸→不幸→不幸→幸せ→平常」
こんな曲線を描いているんではないでしょうか?「♪人生、楽ありゃ苦もあるさ〜」です。
つまり、笑いの「落差」とは、他人の「幸せ→不幸」のことであって、その逆ではないようです。
「不幸→幸せ」の変化は、当人にはハッピーなことですが、第三者にとっては、妬み、嫉み、僻み
といった、おもしろくない事柄なのです。「他人の幸せは、私の幸せ」なんて言ってるのは、
世間離れした人だと言わざるをえません。世間って、やっぱり「他人の不幸は蜜の味」なんです。
そう考えると、「幸せ→不幸」の「落差」は、人を喜ばせる(笑わせる)ことに使えるコツとなります。
Eで、「笑い」と「お笑い」の違いについての見解を述べましたが、
「バカ」と「おバカ」の違いは明快です。笑ってもらおうと意識的にやるのが
「おバカ」で、無意識にやってしまって笑われるのが「バカ」です。
「お笑い」の世界では、笑ってもらおうとする意識が感じられないほどの見事な
芸を指して「天然」と呼んでいるようです。(勿論、リアル天然ではありません)
アメリカは「おバカ」大国です。投稿ビデオなどに全米の「おバカ」が出てきます。
スキーのモーグル競技の真似して、着地点に大きなサボテンを置いてあり、そこに
落ちて、わざわざトゲに刺さります。痛いのは分かりきっていて、それでも、
落ちてトゲだらけになった自分をみんなに笑って欲しいがために、ここまでやります。
血だらけになって、笑顔でVサインをします。本当にfunnyな「おバカ」です。
それを放映するテレビ局が「危険ですので、真似しないでください」とスーパーを入れます。
「誰がするかあ!」と、視聴者からのツッコミを明らかに期待した確信犯です。
日本でも、お花見の季節などによく「おバカ」が現れます。裸で桜の木に登り、
「ミツユビナマケモノ」とかして、そのままお堀に落ちたりします。「おバカ」です。
照れくさいもんだから「酔い過ぎました」とか言って酒で誤魔化そうとしますが、
「おバカ」は隠せません。これが「バカ」の場合だと、桜のシーズンオフにこんなことをして、
救急隊の出動騒ぎになって、ニュースになって、笑うに笑えず、アナウンサーも、視聴者も
みんな困ります。そしてみんな心の中で「あいつは、どこのバカだ?」と憤慨します。
「おバカ」も、やることは「バカ」なんですが、ギリギリの社会性を持っているんだと思います。
先週の土曜日に、安心院のアフリカンサファリに行きました。
テレビの仕事なので、ゆっくり動物は見ることはできませんでしたが、
それでも、新設されたカンガルーパークで、デジカメ撮影することができました。
カンガルーって、本当におかしな生き物です。お腹に袋も不思議なんですが、
強力な後足でのジャンプといい、太い尻尾を使っての立ち姿といい、見ていて
飽きることがありません。前足は細くて弱いのかと思ったら、オトナの前足は、
かなりの筋肉質で、あれで殴られたら、たまらんだろうと思いました。たまに、
ストレッチをして、こちらを睨み、威嚇することがあります。
そう言えば、昔、カンガルーが前足にグローブをはめてボクシングをする映像を
見たことがありますが、あれはヤラセじゃなかったんだと思いました。
ジャンプも凄いし、キックもパンチも強いファイターなのです。
ところが、コドモのカンガルーは、なんとも愛くるしい(動物のコドモは全てかわいい)のです。
デジカメを構えてシャッターチャンスを狙っている私のそばに寄って来て、
後足と尻尾で立ち上がり、「おいちゃん、なんしよんの?」という顔をします。
「なんもせんよ。写真撮るだけやけん」と言うと、「ああ、ほんとう」と言って、
下を向いて草を食べ始めます。シャッターを押すと「え? なんかした?」と、
またこっちを向きます。そんな我々の様子をむこうにいるマッチョな親カンガルーが、
「うちんコドモになんかしたら、タダじゃおかんけんのう」という顔で威圧しています。
これも、私の心の中の勝手な擬人化であって、カンガルーには迷惑なことかも知れません。
因みに、私はカンガルーが、「椅子」に見えて仕方ありません。
先日、佐賀県伊万里市〜唐津に行ったので思い出したんですが、
NHK佐賀放送局制作の『金のケーブル大賞』という番組があり、
その第一回目の大賞作品、伊万里西海ケーブルテレビ製作の『ああ注射の日』には
未だに思い出し笑いをさせられます。
犬が年に一度の予防注射をする日を取材しているだけなんですが、注射の順番を待つ
いろんな種類の犬たちの表情がよく撮られていて、しかもアフレコで、女性アナが
犬の心情を語るのです。震えている小型犬はかわいく「注射いやん」とか言ってますが、
中型犬になると「あー緊張すんなー」とか言って、注射をうたれると「あ痛あ〜っす」
と言って、順番を待つ次の犬に吠え掛かりながら、「今日の注射の痛かったぞー!
次はお前の番やけんのー!!」と言います。注射が終わって、飼い主に甘える犬は、
「お母さん、お母さん、注射ば我慢したけん、今日の晩御飯、なんやろうかあ?」
と言います。軽トラックの荷台で吠えている犬は「なんか?なんか?カメラば向けて、
写さんでよか!」と言います。そして、大型犬は、堂々とした態度で受付の机に前足を
乗っけて「受付の皆さんこんにちは。ワタシの手続きはもう終わったとですか?」
この番組、地元の伊万里では大変な人気だそうで。中には「なんでうちの犬ば写さんとか」
というクレームまであるそうです。私はこのビデオを何回も見ては笑い、涙します。
そして伊万里という町が大好きになりました。いつか行ってみたいなあと思っていたら、
仕事で行く機会に恵まれました。(日記3月31日にも記載しています)
のどかで、落ち着く伊万里の町を歩いていて、犬に出会うと、「なんか?なんか?
どっから来たとや。そがんジロジロ見らんでよか!」と言っているようで、嬉しくなります。
これは、私の心の中の勝手な擬人化であって、犬には迷惑なことかも知れません。
イソップの時代から、寓話、お伽話などで擬人化の手法は使われてきました。
人間社会を批判するのに、動物などに置き換えて説明する方が、シンプルで、
イメージ化しやすいし、インパクトもあり、記憶に残りやすいからだと思います。
イソップ話に出てくるキツネが、「高い枝のブドウは酸っぱい」と言った物語は、
今でも、誰かさんのことを想定して笑えます。自分の実力の及ばないものは否定して
しまうという都合のよさです。そんな人を見たら「ああ、キツネだな」と心の中で
笑えるのです。しかし最近はそんな笑いがなくなったなあと思っていたら、
井上マーという芸人が出て来ました。「理不尽な世の中で自由を奪われしモノ達の
心の叫びを聞いてくれ」と、尾崎豊スタイルで叫んでいるのです。「聞こえる…」
「おでんの鍋の中で昆布が叫んでる。…なんで俺だけ縛るんだあ〜!」
「どこに出しても迷惑な顔される二千円札が叫んでる。…じゃあ俺、どうして生まれて
きたんだあ〜!」このようなフレーズが繰り返され、共感の笑いの渦へ引き込まれます。
「なんで俺だけ縛るんだ」「じゃあ、俺、どうして生まれてきたんだ」この部分だけだと、
尾崎豊なのです。ところが、その叫びの発信者は、おでんの昆布であり、二千円札である。
このように擬人化することにより、メッセージそのものが意味を持たなくなり、叫んでいる
こと自体が無意味で、その無意味さに感動するのはバカらしいという批判をしているんです。
映画「独裁者」の中でチャップリンがヒトラーの演説の真似をしたシーンを思い出しました。
上記Eに書いたようなことが先日(3月20日)起こりました。
福岡の大地震で、玄海島から博多へ避難してきた、おばあちゃんです。
テレビのインタビューで「お宅の被害は、いかがですか?」と聞かれ、
「ああ、もう家ん中、ひっちゃんがっちゃんで歩かれんですたい」
と、ここまではよかったんですが、「猫は歩かるるばってん」
おばあちゃんは、大地震で家の中の物が散乱して、足の踏み場もない状態と、
伝えたかった。しかし、その足の踏み場は、人間の感覚であって、猫ならば
なんとか歩けると、詳細に伝えてしまったわけです。
震度6弱という大地震に見舞われ、船に乗って、避難したばかりなのに、
「猫は歩かるるばってん」これはもう、被災の同情を一気に超えて、
このおばあちゃんの、感性に驚かされた次第です。さらに考えれば上記Cの
野津のおばあちゃんのように、表現の中に秘められたメッセージも伺えるのです。
大地震で家の中は滅茶苦茶になったけど、猫の心配ができるくらい余裕があるよ。
ご心配、ありがとうございます。そんなおばあちゃんの心が私には伝わってきました。
災害でパニックに陥った時は、このおばあちゃんの言葉を思い出そうと思います。
関サバ・関アジで有名になった佐賀関町(現・大分市)には、
威勢のいい、関の漁師さんたちがいます。
大漁だと、お酒も進み、ついつい飲みすぎてしまいますが、
とんでもなく飲みすぎて、お金がなくなり、ついに漁船を売っ払うまで
飲んでしまった猟師さんがいらっしゃいました。
その漁船は、お父さんに買ってもらった新船だったそうで、
ある日。お父さんが「おい、船がねえぞ!」と大声で叫びました。
当の本人は、「なにえ!」と言ったそうです。
この「なにえ!」の一言で、「俺は知らなかった」という意味を伝えています。
自分が飲みすぎて、新船を売っ払っておいて、「なにえ!」
まあ、どうせ、バレるんでしょうが、咄嗟の一言として最高の言葉だと思います
共通語では「なんだって!」と言うんでしょうが、大分弁の「なにえ!」の方が、
今、お笑いブームらしい。テレビでもお笑い番組だらけです。
こうなると、このブームは、いつまで続くのか?という関心も高まってきます。
その前に、「笑い」と「お笑い」は違うという意見があります。確かに「お笑い」は
ブームになりますが、「笑い」は普遍性を持っているような気がします。
「お笑いブーム」というのは「お笑い芸人ブーム」なのではないでしょうか?
ブームは消耗されます。しかし、それは悪いことではないと思います。
刺激的、瞬間的なお笑いは、一過性という使命があるからです。飽きられるまでが命です。
飽きられたら、新ネタを創作しなければなりません。しかし、ネタはいずれ枯渇します。
このことは、商品開発にも似ています。大ヒット商品は息が短いのです。
ところが、ロングセラー商品というものもあります。いわゆる定番商品です。
消費者は、それを買うのが、当たり前になってしまう、つまり、習慣化するのです。
笑いの場合だと、古典落語はロングセラーということになり、伝統芸能と呼ばれます。
ひとつのネタを何十人もが、数百年かけて語り継がれたものは、洗練されています。
音楽もそうです。クラシックは普遍性を持っています。しかし、ビートルズは、
どうでしょう? 「ヴェートーベンをぶっとばせ」と言っていた彼らの曲が今や、
音楽の教科書に載っています。クラシックに新しい血が混入されたわけです。
新しい笑いの中に、笑いの歴史を変えていくものが現れることもありうるのです。
私の知り合いで、葬儀に参列中、お焼香の瞬間に肩を脱臼した人がいます。
「なんでこんな時に!」
と本人は思ったそうですが、誰にも言えず痛みに耐えながら、
静かに葬祭場を後にして病院へ直行したそうです。
この話は、思い出す度に笑いがこみ上げてきます。
「かわいそう」なんだけど、よりによって、お焼香中に…。
タイミングの意外性だけでは済まされない、なんというか、厳粛さの中における、
不可抗力といったものが、笑いを誘うわけです。
そして、もし、その時に彼が「あっ、脱臼した!」と叫べばどうなったか。
おそらく、葬祭場の係員が駆けつけて、しかるべき処置を速やかに行い、
参列者は、その場の雰囲気の中での心配をし、静かなざわめきもすぐに納まったでしょう。
ところが、彼は、脱臼の事実を隠して、痛みを我慢して、その場を去ったのだから、
いいのです。場の雰囲気を考えての大人の行動です。たぶん、私もそうしたでしょう。
「かわいそうに」「わかるわかる」が、とんでもない場面で起こった例です。
さらに、私のメモ帳面には、『○○氏、焼香中脱臼』と書いてありました。
その文字を見ただけで、不謹慎ながら、未だに笑えます。
私が笑う物語の特徴として、自虐性と同調性があるように思えます。
感じ方としては、「かわいそうに」「わかるわかる」ということになります。
「かわいそうに」の状況も様々ですが、当事者の安全が保証されていなければなりません。
上記Aの場合では、奥さんにひどいことを言われた旦那さんの心痛に対して、
「かわいそうに」と同情するわけですが、だからと言って、その事がきっかけで
大喧嘩や離婚にまで発展するようには思えないという、安全性が伺えるのです。
だから、「わかるわかる」うちだってそうですよ。お互いつらいですなあ的な、
同調性が湧き、よその家庭を覗き見ながら、我が家を客観視し、自嘲気味に笑うのです。
自らを嘲笑することは、ネガティブではありますが、そこに、清清しさ、潔さを、
感じてしまうのです。さらに言えば、将来への明るい展望さえも伺えるのです。
だから、むしろ、ポジティブなのです。
本気で反省している人の様子を見る時の感じ方も、これに近いような気がします。

数年前、野津町(現、臼杵市野津町)の方から教わった話を紹介します。
【ある日、野津に住む、ばあさんが村人に、
「最近のニワトリは、アクビんじょうしち鳴かんなったなあ!」
と、言ってまわった。村人みんな「みょうなことを言うばあさんじゃのう」と、
相手にしませんでした。すると、おばあさん今度は、
「最近の雷様は、ピカピカ光るじょおで、ゴロゴロ言わんなったなあ!」
と、言い出した。これには村人も「雷様は、ゴロゴロ言いよんじゃねえか」
「ばあさん、いったい何が言いてえんじゃろか?」と疑問を抱きました。
そこで、ある男が「ああ!ばあさんは、耳が遠うなったんじゃ」と言いました。
そして、村人みんなが「なるほど、そうか」と、理解したそうです。】
実は、このばあさん、独り暮らしで、今まで誰の世話にもならずに野良仕事をして
元気に暮らしていたそうです。ところが、最近、自分の耳が遠くなったことに
気がついて不安になり、「何かあった時は、頼むで」というメッセージを村人に
伝えたくて、あんなことを言って回ったということです。
だったら、率直にそう言えばいいのにと思いますが、率直にそう言えない性格が
感じ取れます。また、それを汲み取って、理解してあげないといけないのだと思います。
ほのぼのとした農村の笑い話の中に、地域社会の中で忘れてはならない人間性というものを
教えてくれた物語でした。
上記Aの例のように、方言で伝えられる笑いがあります。
大分県以外の方には、理解しにくいと思いますが、大分県民にとっては、
共通語訳されたものより、遥かに笑えるんです。そもそも、大分弁で考えた物語を
ストレートに大分弁で表現するから、よく伝わるのだと思います。
また、大分弁で思考する人たち特有のユーモアセンスというものもあります。
従って、大分県人の笑いに関する精神が面白いのであって、大分弁はその表現手段
ということになります。ですから、共通語訳すると面白さが劣化するのです。
これは、大阪弁の漫才を東京弁に翻訳するようなものです。その逆も結果は同じで
オリジナリティが薄らいだ分だけ、笑いの鮮度もインパクトも弱まるということです。
笑いも『地産地消』なのだと思います。
笑いの種類は雑多で、また、その受け止め方にも個人差があります。
私は、「自虐的な笑い」は好きですが、「他虐的な笑い」は嫌いです。
OBSラジオで平成7年から、約10年間やっている『夕方なしか』のネタも
そのほとんどが、「自虐的な笑い」です。
★『夕方なしかの本』第1巻 其の92(別府市タツノオトシゴさん)
【家の灯】
「おまえがおらんと、家ん中が灯が消えたごと
暗うなるわい」ち女房に言うたら、
「あんたがおらん方が、もっと明りいで」ち。 なしか!
※共通語訳
「おまえがいないと、家の中が灯が消えたように
暗くなるんだ」と女房に言ったら、
「あなたがいない方が、もっと明るいわ」って。なぜだ!
と、かなり自虐的です。
被害者の立場と言えなくもありませんが、同情というよりも、同調で笑うと
私は思います。一方、他虐的な加害者の立場には、なかなかなりにくいもので、
後ろめたさが先立ってしまい、笑いにくいのです。(勿論、個人差はあります)
最近、「笑い」と「健康」の関係についての関心が高まっています。
笑うと、免疫力が上がって病気になりにくいとか、新陳代謝がよく
なって、元気になるとか言われています。しかし、「健康」になり
たいがために笑うというのは、無理があるような気がします。
笑った結果、なんだか元気になった。という方向じゃないかと思います。
赤ちゃんの場合は、笑うことによって親の感心を引き、かわいがって
もらいたいという自己防衛本能が働くと言われていますが、おとなの
場合は、ひとりで勝手に笑います。そこに目的意識は見当たりません。
それでも人は、笑いたくなります。それはなぜでしょう?
人間以外の動物は、喜ぶ仕草は見せても笑うことはありません。
ということは、笑うという行動は、人間の智恵がさせることと言えます。
私は、人間の脳が発達しすぎた為に、複雑なことを考えすぎたり、
余計な心配をしたりで、疲労してしまうので、リフレッシュの為に「笑い」
という行動を取らせるのではないかと考えます。